役割が与えられる
最近の大会でFWTの選手を間近で見ることがあった。同じ日に同じ場所での大会が開催されたから。大事な場面の彼らをスタートゲートからアフターパーティまで見れることは面白い。
そこにいた彼らは来年のFWT出場が約束されている選手たち。なんとなく余裕というのか安堵というのか攻めている滑りの中でもそんなものあるのだろうかと彼らを見て思ってしまう。
役割があることでどれだけ気持ちが楽になるのだろうかと思う。第一線にいる間は目の前のことだけを見ていれば良いというのも分かる。
何もしなくてもやってくれる
第一線にいる彼らはFWT側がメディアやコンテンツを作成する。自分で多くをしなくても勝手に付加価値をつけてくれるし、見ている側もそう理解しやすい。そしてそれがプロっぽかったりする。
ただ最近はトップの選手でも自分でYoutubeを撮ったり自分でコンテンツを作ろうとしている。それがここ最近で大きく変わったことだと思う。
何もしなくも来年の役割が決まっていて、それなりに運営側が盛り上げて扱ってくれる。見てくれる人は増えるだろうが、その中でも上記のように主体性が見える選手もいる。
集中できる一方で、主体性の重要性
自分の中では彼らの中で大会以外に何かしている人たちの動きが気になる。競技を生かして発進に力を入れたり、映像を作って多くの人に見てもらおうとしたり。
今はトップから落ちてきた選手たちと戦っているが彼らがトップにいる時間はとても短いように思う。環境が自分を気持ち良くしているその時間はあっという間に過ぎていく。
大袈裟に言えば『勘違いしている時間』の間に開いていく差は大きく、さらに自分のプライドが邪魔すれば取り戻すのに多くの時間がかかる気がしています。