見える人、見えない人

2022.05.27

ジョージアの山から。なんとなく白馬の雰囲気を感じる

同じものを見ている?

チームやクルーには基準がある。それは無意識的にできあがるもので『これはこうだよね』と言った共通認識の部分が大きい。

『あそこは飛ばないでしょ?』と思っているクリフでもそれを飛んでくるチームと一緒にいると段々自分も飛ぶようになってくる。

ジョージアでの大会がそうだった。4人目の選手が特大クリフからバックフリップをしてきた時、そのクリフからのジャンプが全く自分の選択肢に入っていなかったことに気づいた。

『同じ斜面を見ているのに、見えているものが違う』なんて面白いんだろうと思う。

見ているけど見えてない

なぜ彼には『あのクリフからバックフリップ』という選択肢が見えて、僕には見えなかったのだろうと考えた。

見ている斜面は同じ。消去法で考えていくと斜面を見ている『本人の見方』に違いがあると言うことになる。

彼と僕の間にある見方の違いってなんだろうか、何が違いを生んでいるのか。

僕は環境による部分が大きいと思っている。具体的には『ヨーロッパの山で滑っている人と日本の山で滑っている人が持つ感覚の違い』と言うところ。

毎日あのサイズのクリフを見ている彼らにとっては大会斜面にあったクリフが『特大』ではなく『大』くらいの感覚になり、そうなるとトライするまでの心の距離が近くなる。

一方そのクリフを飛べるクリフとして見えない僕にはそもそもトライするという選択肢がない。

見えた?(創造できた?)

同じものを見てもそこから『見えてくるもの』に違いがある。この『見えてくる』と言うのはある種の創造も含んでいると思っている。

この創造部分がその人の『見方』の正体なのかもしれない。その創造部分はどう作られるんだろうか、育った環境なのか。

そういえば彼らはよく『滑るライン見えた?』と話していることが多かった。

ちなみにジョージアで特大フリップを見た後、僕はそのアイデアをいただいて優勝した。アイデアをくれてありがとうネモ。w

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書いた人

勝野天欄

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